月光を背負って、その生き物は静かにこちらを見下ろしている。 ミナキは思わず溜息を吐いた。 水を司り、北風の生まれ変わりとも称されるその体躯の、滑らかな体毛、透き通るような水の色や白が、これまでとは比べ物にならないほど間近にある。 間近、どころではない。数枚の布を挟むのみで、殆どじかに触れているのだ。 その紅い眼はこれ程まで透明で美しかったのか。その肢体はこれ程までにしなやかだったのか。 10年前から世界で1番美しい生き物だと思っていたが、そう思い馳せたより更に何倍も、その生き物は美しかった。 「スイクンの事になるとミナキ君は人が変わるよね。まるで子供みたいになるから、見ていて少し不安になるくらいだよ。」 そう、マツバにからかい半分で言われたのはいつの事だったか。 そのスイクンにこれほど接近しているのだ、常ならば千載一遇のチャンスとばかりに目を輝かせ狂乱状態で、スイクンを手中にしようと、あらゆる策をめぐらせているところだろう。常ならば。 (これは、少しまずいかもしれないな) だが、流石のミナキもこの状況には嘆息するしかなかった。タンバ特有の粗い砂が後頭部を嫌な感触で引っ掻いた。 スイクンの比較的細身でしなやかな体躯は、それでも優に大人1人を乗せられる程はある。脚も決して華奢などではない。 その脚が、ミナキの両の上腕を砂浜に押さえつけていた。スイクンの頭越しには雲ひとつない星空と銀色の月しか見えない。 全身を乗せられているわけではないが、やはりこういった事は人間よりずっと得手なのだろう。左右の腕を押さえつけられただけで、どういう訳かびくとも動けない。 彼にしては随分珍しく弱気になり、ミナキは自問する。 憧れが強すぎて本質が見えなくなっていただろうか?油断したとでも?端的に言ってしまえば、調子に乗っていたのかもしれない。 現状はひとつの事実をミナキに突きつけていた。曰く、目の前にいるのは1匹の獣で、人間の自分1人の力では到底太刀打ちできないのだ、と。 両腕がしびれて感覚がなくなってきている。ボールは腰につけているが、手が届きそうにない。世の中にはマスターのピンチに勝手にボールを抜け出すポケモンもいると聞くが、愛情こそもってはいても、生憎そのような躾はしていない。 ミナキに残された選択は、獣の両眼を見据える事のみとなった。 スイクンは全身の色味から浮き出るような紅い眼でこちらを凝視する。ほんの僅かに口から、唸っているのか喉を鳴らしているのか判断のつかない音をもらした。 伝説のポケモンといえど、人間に追い回され、遂に堪忍袋の緒が切れたか。それもそうか。自ら捕まるポケモンなどいない。このまま、殺されてもおかしくはない。野生の生き物に対し、不用意に近づきすぎた。踏み出してはいけないラインから、1歩踏み出してしまったのだろう。それはこちらの過ちで、この状況はそれに対する当然の応報だ。 だが、野を駆け回るその美しい姿を捕らえて我がものにしようと望んだ事に関しては、今この時でさえ罪悪感も後悔も覚えなかった。欲しかった。何をおいても、1番に、この生き物が欲しかった。何より、この生き物に認めて欲しかった。 今は膠着状態だが何がスイッチになるか分からない。僅かな恐怖を感じながらもミナキは口を開いた。 「お前を追い掛け回したりしてひどい事をした、なんて、そんなことは言わないぜ。後悔などしない。私は、本当にお前が欲しかった。…だが、私の喉を喰いちぎるのも、もうお前の自由だ。好きにすればいい。」 スイクンを手に入れる、そのためならどんな対価も払う。自分自身が例外になる筈もない。 この人生は、お前に捧げると決めている。 「お前に殺されるのも、いいのかもしれない。」 ここで死ねばスイクンを手に入れる事も不可能となり、それが悩みどころではある。だが、すでに心中は穏やかだった。強張っていた首の力を抜き、喉を晒す。これから起こるかもしれない事を想像すれば、流石に喉がすっと冷えた。 そして、ふと唐突に、そういえば大声で助けを呼べば何となったのではないかと思い至った。 だが、最早その気も起きない。 結局のところ、この浜辺に倒れこみ今に至るまで、常に根底にあったのはスイクンの間近に迫れたことの喜びだった。 波は絶え間なくも静かで、月光は美しい。そして全てを賭けて焦がれ追い求めた生き物がこんなに近くにいる。それを、みっともなく大声を出して助けを求めるなど、誰がそんな事をするものか。 今度こそ落ち着いて、ミナキはスイクンの顔をまじまじと見つめた。そして漸く違和感に気付く。 そういえば、この状態になってもう何分経ったろうか。本来なら、すぐにでも襲い掛かられるか、下手をすれば噛み殺されるか、そうでなければ、さっさと立ち去られるか、どれかの筈だ。 それなのに、スイクンはずっと同じ体勢で、ミナキを見つめていた。 その眼はあくまで穏やかで、そういえば最初からこうだったような気がする。 「躊躇っているのか。それとも、何か言いたいのか。もうしつこく追いかけてくれるなと?そいつは無理な話だぜ。」 別にずっとこのままでも構わなかったが、何らかのアクションを求め、ミナキは語りかける。 首でも撫でてやりたいと思ったが、両腕は指を動かすのはおろか、肘を曲げる事さえ侭ならない。 スイクンは鼻の辺りをひすひすと動かしている。それが妙に生々しく、矢張りこれは獣なのだと実感した。もしも、再び追いかける事が許されるのなら、今後その点には充分留意しようと考えた。 予兆は全くなかったので、恐怖心すら感じなかった。 不意にスイクンがこちらに顔を近づける。 そして、ミナキの首筋を舐めた。 「っうわ!」 恐怖心というよりは単純に感触に対する驚きで、ミナキは情けない声を上げた。 ざらついてひんやりとした、しかし、生き物のぬくもりがしっかり感じられる不可思議な感触だった。 そのまま流れるようにスイクンは前脚を退け、ミナキの横を通り抜ける。 余りの事に一瞬反応が遅れたが、ミナキは慌ててその後を追おうとする。腕は完全に麻痺していて立ち上がる為の役割は果たさないし、ずっと不自然な姿勢でいたので体中が言うことを聞かない。まして砂浜に足を取られ思うように動けないなか、肩と腹筋の力でどうにか立ち上がった。 遠くにある民家の光は、ここには殆ど届かない。月光だけを頼りに、黒い海が広がっている。その上にスイクンが、こちらを見て佇んでいた。 つよい感情が胸を占め、ミナキは目を細める。 つい先程の教訓を忘れそうになる。10数年前と変わらぬ、胸を焦がされる姿がそこにはあった。 「やはり、私はお前が欲しいよ。」 それに応えるでも応えないでもなく、スイクンはひと声だけ吼えて、そのまま背を向け走り去っていった。 波の音は絶えない。両腕の感覚が段々と戻ってきて、痺れから痛みに変わった。その痛みも次第にゆっくり消えていく。それが寂しく思えたが、あの生き物を追い求めるのに、この腕は必要だ。だから、これでいいのだろう。 ミナキはその腕をさすり、くしゃりと顔を歪めて笑った。 ここ最近はエンジュを中心としてジョウト各地にスイクンの痕跡が見かけられるので、マツバの家にも比較的頻繁に訪れるようになっていた。古い友人は当たり前のように出迎えてくれる。 ミナキはモンスターボールを開け、手持ちのポケモン達を出してやった。この家には顔馴染みも多いのだ。 お互いのポケモンがわいわいとじゃれあう中、マツバとミナキは挨拶を交わす。 「元気だったかい?」 「ああ。順調そのものだぜ。」 他愛もないやりとりの末、マツバは僅かな含み笑いを見せながら、問うた。 「腕の調子は、どうだい?」 一瞬何の事だか分からなかったがすぐに思い至り目を丸くしたものの、ミナキにとっては特に驚くことでもない。代わりに半分呆れたように返す。 「視たのか。まったく、便利な能力だな。」 「別に、積極的に視た訳じゃないさ。感情の揺れが大きかったから、遂に捕まえたのかと思ったんだけどね。」 「…まぁ、そんなに簡単には捕まってくれないさ。とにかく、視ていたのならば話は早い。あの状況で、私は怪我ひとつ負っていないだろう。それが意味するところ、分かるか?」 心底嬉しそうに話すミナキの表情は少年そのものだ。ああ、前にも言ったけどね、だから心配になるんだよ、とは言わずにおいた。 いつも通り一方的に、立て板に水を流すように話し続けて、彼は結局こう結論付けた。 「カントーへ行こうと思う。」 マツバは穏やかな笑みのまま、ミナキの水の色をした瞳を見る。 「そうか。でもカントーなら、行くじゃなくて『帰る』じゃないのかい。」 マツバは取り留めのない、他愛のない会話を続ける。 心の中では、ひとつの事を念じ続けていた。 未来など視てはいけないのだ、と。 ********* スイ←ミナ。主人公ホウオウゲット直前辺り。 この夜は風呂には入っても(綺麗好き)、首はあまり洗わないミナキくん。 この時の服は取っておくミナキくん。 2010/9/23 pkmn二次創作へ戻る |