「スイクン」
あまりに明瞭な発音だったので、自分に話しかけてきたのだと思った。
例えば、唐突にスイクンを想う心が昂ぶって居ても立ってもいられず、その素晴らしさを語り出したのだろうか、と。それは、彼にしては珍しいことではない。
いや、でも彼はつい先程、和室で読み物をしている自分の隣にごろりと横になって、ひざ掛け一枚で転寝をしていた筈だ。これは、彼にしては珍しいことである。
それならば、スイクンの夢でも見て、それが何か心揺さぶられる内容だったので、それを報告しようとしたのだろうか?
半分正解で半分違う。マツバが隣を見下ろすとミナキは未だその目を閉じ、緩く開けられた唇からは寝息が聞こえる。

「…え、寝言?」
思わず声に出してしまった。
いつでもハキハキと喋るひとではあるが、寝言までこんなに明瞭だったろうか。10年以上付き合っても新しい発見はあるものだ。
そう考えながらしばらく様子を見ていたが、どうやら明瞭だったのは先程の一声だけで、あとは何やらむにゃむにゃ言っているだけだ。

普段からどちらかというと格好つけな恋人の無防備な姿に絆され、頬を和らげたのも束の間。マツバはふと表情を改めた。
安らかに見えた寝顔が、時折眉根を寄せるような動きをしていることに気付いたのだ。んん、と不明瞭な寝言も、『寝言』というには間隔が短く繰り返されている。そしてまた、言葉になっていない音を口から漏らし、何かを振り払うようにかぶりを振った。大分乱れた髪の毛がぱさりと音を立てて床に落ちる。

(魘されている?)
起こしてやった方が良いのかも知れない。そうして手を肩に伸ばしかけたところで、ふと、障子を閉め忘れていた窓の外がいつもより明るい気がして夜空を見る。立派な月が、黒い夜空に煌々と輝いていた。
今日は満月だ。
それを理解すると同時に、なるほど、と得心した。

今日は、満月だからだ。

マツバは月が好きだった。
常人には見えないものを視る力を持っているマツバだが、それはこの星に於いて、の話だ。月の様子などマツバには地上から眺める以外に窺う手段がない。そのくせ、マツバのあやつるゴーストポケモンたちが活発になる夜、空に寄り添うのはいつだって月だった。
月の原理は、今となっては科学の力で粗方明らかになっているのだろうけれど、マツバは科学には明るくはない。
よく分からない原理で以って、よく分からない宇宙という空間を挟んでこの星の隣に浮かび、それでいて夜には美しい光球となって静かに、誰の目にも穏やかに映る月。
気の遠くなるくらい離れているくせに、万人がその両の眼で姿を捉えることが出来る身近さ。
そのアンバランスさがマツバは好きで、同時に軽く畏怖の念も持ち合わせていた。
だからマツバはひとつの迷信を信じている。

月は、いきものを狂わせるという。
満月の晩には馬が死ぬ。
満月の晩には病が悪化する。
満月の晩には自殺者が増える。

満月の晩には、ひとが狂う。

「う、」
一際大きく呻いて、ミナキがまたかぶりを振った。
眉根は完全に寄せられ瞼がひくりと震え、その隙間から涙が一筋あふれた。薄い唇がわなないて、寝息にしては荒い息が吐き出された。

今晩は満月だ。だから隣に眠る男も、その夢をかき乱されているのだろう。彼の、最も重要で、最も弱い部分を。
指先でそっと、涙で濡れた目じりを撫でた。ミナキは全身を僅かに竦ませたが、起きる気配はない。
矢張り起こしてしまった方が良いだろうか。

(それとも、)

例え夢であっても、それが身を切られるような手酷いものだったとしても、あの生き物にまつわるものならば彼はきっと手放しなどしないのだろう。手を伸ばさずにはいられないのだろう。子供のように泣きそうな顔をしながら。

(このまま夢を見ていたいと思っているだろうか。)

起こしてしまおうか。起こさずにおこうか。
頭の中で二つの選択肢がぐるぐるととぐろを巻く。その間にもミナキは覚束ない母音を口からこぼしている。これだけ魘されていてもまだ、起きる気配はない。
マツバは夢に必死で取り縋るミナキの姿を見たような気がした。その姿はまるで、
「まるで、呪いだな」
誰に言うでもなく口に出す。

丁度窓越しに覗いている月を見つめる。ぽっかりと、おそろしいくらいに丸い満月だ。
満月は、いきものを狂わせるという。
そういえば、自分も『いきもの』だったな、と他人事のように思い出した。









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マツバさん起こしてやって!
満月じゃなければ起こしてやったんだろうか。
『満月の夜には馬が死ぬ』のネタは「ね.じ.ま.き.鳥.ク.ロ.ニ.ク.ル.」(村.上.春.樹. 著)よりお借りしました。



2010/10/10

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